Journal d'un lecteur

フランス語での読書記録です。

二冊目:Sagan "Bonjour Tristesse"

 

二冊目はフランスワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」です。

 

とても有名な小説ですので、読んだことのある方も多いかと思います。

日本語訳は朝吹登水子のものと、河野万里子のものが新潮文庫から出ています。僕はとりあえず朝吹訳を買って、原文を読んでいて分からない部分が出てきたら参考にしました。言葉使いが少し古臭い感じがしますが、慣れてしまえば全く気にならないレベルです。河野訳は未読です。今wikipediaで調べて初めて知ったのですが、この二つに加えて、安東次男という詩人が訳したものも以前は出版されていたようです。安東次男と言う名前、どこかで見たことあるなと思ったら、手元にある「フランス詩集」(浅野晃編、白凰社)でエリュアールのliberté(自由)という詩を翻訳した方でした。エリュアールの詩はとても素晴らしいので、いつか僕のブログでも取り上げたいです。ちなみにエリュアールはフランスの詩人で実は「悲しみよこんにちは」の冒頭にも彼の詩が引用されています。Bonjour Tristesseという本のタイトルも実はエリュアールの詩からの引用なのです。

 

 

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 
悲しみよこんにちは (新潮文庫)

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

 

 

 

Bonjour Tristesse

Bonjour Tristesse

 

 

 

さてさて、フランス語の原書の方についてですが、「悲しみよこんにちは」は日本語訳だけではなく、原書の方も、結構な数の読者に読まれているのではないかと思います。

先日新宿のKinokyniya Books Tokyoを訪れたところ、2017年度の売り上げベスト3に入っていました。多くのフランス語学習者に読まれているのだと思います。個人的にはカミュの「異邦人」とサン=テグジュペリの「星の王子さま」、それからサガンの「悲しみよこんにちは」がフランス語学習者がまず手に取る本なんじゃないかと思います。カミュの「異邦人」は非常にシンプルな文体で書かれており読みやすいですし、大学の授業なのでもお勧めされることが多かった気がします。「星の王子さま」についてはあまりにも有名なのであえてここで触れる必要もないかと思います。

 

さて、今回取り上げる「悲しみよこんにちは」についてですが、フランス語のレベルだけを見ると、先に挙げた2作品よりもかなりレベルが高くなっております。「異邦人」や「星の王子さま」は、フランス語の文法を一通り学び終えれば辞書を片手に内容を追っていくことができる小説です。しかし、「悲しみよこんにちは」は違います。相当フランス語の小説を読みなれていないと、この本の内容を読み取るのは難しいと思います。

 

有名な冒頭の一文を見てみましょう。

 

"Sur ce sentiment incconu dont l'ennui, la douceur m'obsèdent, j'hésite à apposer le nom, le beau nom grave de tristesse. "

 

どうでしょうか?この一文をさっと読みこなすことができれば、相当文学作品を読み込んでいると言っても過言ではないと思います。

 

ちなみに、カミュの「異邦人」の冒頭も有名ですが、そちらは、

"Aujourd'hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas"

となっております。難しい単語も何もない、非常にシンプルでありながら、読み手にある種の緊張感と物語に対する期待を抱かせる素晴らしい一文だと思います。

 

ついでに「星の王子さま」も見てみましょう。

"Lorsque j'avais six ans j'ai vu, une fois, une magifique image, dans un livres sur la forêt vierge qui s'appelait Histoires Vécues"

とあります。「異邦人」に比べると、だいぶ息の長い文章になりましたが、それでも、句切れがはっきりしているので、頭から読んでいって素直に理解出来る文章であると思います。

 

サガンの文章、難しいと思いませんか?僕は最初の段落を読むだけでも相当苦労してしまいました。一度さっと読んだだけでは内容が頭に入ってこなかったです。

サガンの文章がフランス語学習者にとって難しい理由はいくつか考えられます。

 

①単語が難しい。ennui, douceur, tristesseなど感情を表す名詞が一文の中に三つも出てくるため非常にややこしい。また、動詞もobséder、apposerなど見慣れないものが多い。

 

②倒置が行われている。

 

以上の二点が重要な点だと思います。①については勉強するしかないですが、②についてはいろいろな文章を読んで慣れるのが一番だと思います。

 

悲しみよこんにちは」の冒頭の一文を分析してみましょう。

まずは、Sur ce sentimentとなっているので、この一文は何かある「感情」のことを話題にしているのがわかります。ただし、この一文を構成する上で最も重要である要素はj'hésite(私はためらう)の部分です。では何をためらっているのかというと、j'hésiteの直後の部分、à apposer le nom, le beau nom grave de tristesse(悲しみというたいそうな名前をつけるかどうか)ということになります。では何に名前をつけるかというと、それが冒頭のsur ce sentiment(この感情に)と繋がってくるわけです。さらに、ce sentimentを詳しく説明するためにdont l'ennui, et la douceur m'obsèdent(倦怠と優しさがつきまとって離れない)の部分が挿入されています。

慣れてしまえば倒置が行われていても、すらすらと読める等になりますが、気を抜くとすぐに文章の構造がわからなくなってしまいます。

 

さて、冒頭の一文がどれだけ技巧的であるかお分かりいただけたでしょうか。ちなみにこの一文にはじまる段落もなかなかな曲者です。というか、サガンの文章、登場人物の感情を語る際にこの複雑さがちらほら現れます。

サガンも冒頭の一文を作るのに相当手こずったらしいです。それだけ、この一文にエネルギーを注ぎ込んだことにはなるのですが、その分フランス語学習者を悩ませる文章が出来上がってしまったものと思われます。

またプルースト好きを公言しているサガンの文学的な嗜好も相まっているでしょう。ちなみにプルーストの文章も複雑さで有名で、フランス文学の完成系であると言われています。それをお手本にして書いているので、サガンの文体もまた技巧的にならざるおえないのでしょうか?(個人的な感想ですが、プルーストの文章はサガンの文章よりもすんなりと頭に入ってきます。)

 

正直に言うと、僕はサガンのこの小説はあまり好きにはなれませんでした。もちろん素晴らしい部分もありましたが、全体的に行って、技巧が過ぎるという印象で、それを優先するあまり、内面の描写が不十分なのではないかと思われるところもありました。ちょっと舌足らずな印象です。サガンの他の小説は読んだことがないので、この小説だけで評価をするのも変な話ですが、サガンの他の作品でこれは是非読みたいと思える小説がありません。。。

もちろん、僕が勉強不足で、何年かして読み直してみたら、全く今と違う感想を抱くということもあると思います。

 

また、しばらくしてから読み返してみようかなと思います。二年後くらいかな。できれば南フランスの海辺のコテージを借りて、ヴァカンスの最中に読みたい!

 

最後に、この本の中からとても好きな場面をいくつか引用して終わります。

 

"Un coup de klaxon nous sépara comme des voleurs"

セシルとシリルが初めてキスをしている時に、アンヌの車が到着し、二人が離れ離れになる場面です。なんとなく、comme des voleurs の部分が好きです。80年代の安っぽいフレンチポップの歌詞にでも出てきそうな感じ※。ちなみにここでは比喩としてvoleursが使われていますが、別の場面ではシリルのことをbanditとたとえている場面もあります。なんとなく、比喩が安直よねと言った感想を持ってしまいました。

※(自分の書いた内容読み直してて、何の曲か思い出しました。ElsaのT'en va pasって曲です。大学の授業で教授に覚えさせられた曲です。今聴き直したら曲の方はcomme un voleurで単数でしたけど。)

 

"Je comprenais que j'étais plus douée pour embrasser un garçon au soleil que pour faire une licence."

このセリフはなぜかジーン・セバーグのイメージ。「悲しみよこんにちは」のジーン・セバーグではなくて、「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグのイメージです。ゴダールはこの小説読んでるのでしょうか?読んでても、読んだった言わなそう。ゴダールはそういうイメージ。なんかのインタビューでグザビエ・ドランの映画を見てないって言ってました。本当は見てるけど、見てないって言いそうな感じ。だから「悲しみよこんにちは」も本当は読んでるけど、読んでないって言いそうという勝手な妄想。